外房ヒラマサ

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春のヒラマサを狙いに外房へ

春の海というものは、陸の人間に対して実に残酷である。 冬の鈍色を脱ぎ捨て、いかにも生命に満ちているような顔をしておきながら、その実、腕のない者には何ひとつ与えない。 むしろ希望だけを与え、最後に静かに取り上げていく。外房のヒラマサ釣りとは、だいたいそういう類の遊戯である。 私はその日、外房へ向かった。狙いはもちろんヒラマサ。海の青物の王様であり、筋肉でできた魚雷であり、 アングラーたちの財布と休日と精神力を食って生きている魚だ。

船宿は御宿の長栄丸。 常連を名乗れるほど通い詰めているわけでは全くない。しかし数度船に乗ればわかることがある。 船長の調子、中乗りの人の接し方、そういうものには、人柄が滲む。私にとってはそれは重要だ。

前夜に、私はノットを組み直した。 ラインとガイドリングには潤滑剤を吹き、フックを交換した。 錆びたフックは、まるで信用を失った政治家の演説のように、最後の瞬間に人を裏切る。

ヒラマサは毎週行ける釣りではない。そして私も上手くない。 だから準備をする。できる限り徹底して準備をする。

もちろん船の上でもノットは組み直せる。フックも交換できる。 だが海は待ってくれない。チャンスというやつは、だいたい他人のルアーに先に食いつく。 だから前夜にやる。体調も整える。道具も整える。下手な人間には、準備くらいしか戦う方法がない。

夜九時に寝た。子供の遠足のような時刻である。二時半に起き、三時半に家を出た。

道路は空いていた。 浮島ジャンクションには、自家用車がぽつぽつ流れているだけで、巨大なコンクリートの結節点が、まるで早朝の大聖堂のように静まり返っていた。 普段なら木更津アウトレットへ向かう車列で膨れ上がるアクアラインも、その日は当然に静かだった。

横浜から外房まではおよそ百キロ。だが夜明け前の高速道路というものは距離感を狂わせる。街灯が一定の間隔で流れていき、 白線が催眠術師の振り子のように続いていくうちに、人はだんだん「向かっている」のではなく、「吸い寄せられている」のだという気分になってくる。

出船

その日は五月五日、こどもの日だった。 世間では父親たちがカメラを持ち、母親たちが弁当を広げ、子供たちがショッピングモールや公園で騒いでいたことだろう。 鯉のぼりは風を受け、柏餅は食われ、日本全国で「家族サービス」という名の大移動が行われていたはずだ。

だが港には大人しかいなかった。ヒラマサに脳を焼かれた大人ばかりである。

目の下に隈を作った男。 コンビニの缶コーヒーを握る男。 連休最終盤に、わざわざ早朝の海へ集まってくる人種など、健全という言葉からはかなり遠い。

多くは友人連れだった。常連同士で笑い、情報を交換し、前日の釣果を話していた。 「昨日、あっちで出たらしいですよ」 釣り人は未来の話をしない。するのは、昨日どこで誰が何キロを上げたか、その話だけである。 私は一人だった。ライフジャケットを締め、静かに出船を待っていた。 エンジンが唸る。係留ロープが外される。船尾から白波が伸びる。 そうして船は、我々を「可能性」という名の広い空白へ運び出していった。

釣果

さて、結果から言おう。何もなかった。アタリすらない。 午前船、午後船、通しで乗ったにも関わらず、私のロッドは一度も生命反応を伝えなかった。 もちろん船では魚が上がっていた。 一日で五本ほど。どれも十キロを超える立派なヒラマサだった。

誰かが掛けるたびに船が色めき立つ。 タモが伸びる。ドラグが鳴る。 海面が割れ、銀色の筋肉が陽光を弾く。 だが、釣れる人間には釣れ、釣れない人間には何も起こらない。実に公平で、実に残酷な世界である。 ヒラマサという魚は、行けば釣れるような魚ではない。 その瞬間、その場所へ、その軌道でルアーを通し、正しい速度で誘い、食わせなければならない。 一拍遅れれば終わり。努力し、工夫し、何よりも通わなければ絶対に釣れない。 海は学校ではないので、「頑張ったので加点します」は存在しない。

午後、隣に入った若いアングラーは見事だった。 おそらく私より十以上若い。だが技術は比較にならなかった。 右舷では右投げ。左舷では左投げ。 両腕で寸分違わずフルキャストを繰り返していた。 午後船でヒラマサがボイルした。次の瞬間には、もうそこへルアーを入れていた。 そして掛けた。ロッドは弧を描き、ドラグは悲鳴を上げる。 魚は海中で突っ込み、船下へ走る。だが彼は慌てない。ロッド角度も、テンションも、呼吸も崩れない。 ああいう人間を見ると、「上手い」という言葉が急に軽く見えてくる。 私は見入ってしまった。

もし自分なら。焦ってロッドを立てる。ラインのテンションを乱す。フックアウトかラインブレイク。 そして帰りの車で「あそこは落ち着いてれば取れた」と二万回考える。 釣り人とは、まだ起きてもいない失敗を脳内で何度も再放送する生き物である。

結局、私には魚は来なかった。 だが、打ちのめされたわけではない。キャストを繰り返して背中は張っていた。腕には乳酸が溜まり、ロッドを振るたびに筋肉が軋んだ。 それでも納竿までロッドを振り続けた。ルアーを替える。移動中にノットを組み直す。 若いアングラーに教えを乞う。ミスキャストする。また投げる。 周囲では知人同士が笑っていた。缶コーヒーを飲み、タバコを吸い、次の釣行予定を話していた。

私は一人で海を見ていた。孤独というものは、不思議な性質を持っている。人混みの中で最も濃くなる。 午後船の終了アナウンスが流れ、静かにロッドをロッドホルダーに差した。 だが、次も来るだろうという感覚だけは、朝よりずっと重く、確かなものになっていた。 ヘミングウェイは、老人に魚を追わせた。 そして海の上で、人間の敗北と尊厳を同時に描いた。 なるほど、と思う。 孤独とは、慰めてもらうためのものではない。 次の時間へ進むための、静かな通路なのだ。 だから次回までに、私は河川敷でキャストの練習をする。 休日に魚を釣るわけでもなく、針もつけずに何度もルアーを投げる。 飛距離を伸ばす。着水点を揃える。 そしてまた、外房へ行くだろう。